「進化言語学の構築」  第三章の要約

パリ言語学会(SLP)が禁じた言語起源

山本肇

 

「本学会は言語起源および普遍言語構築に関するやり取りを一切認めない」

 

・禁止した理由

○蔓延する非科学的な言語起源研究に手を焼いたため

→実際は論文の提出を禁止にはしておらず、会合のトピックに上げることを禁止したものであり、10年後には当会則は放棄されている。

しかし、このような事実関係は一切忘れさわれ「言語を専門とする学会が言語起源に関する研究を公式に禁止した」というインパクトのある事実のみが切り取られてしまった。

 

・当学会の会則の第一項

「当学会は言語の研究および化学的な民族誌学的研究に寄与しうる伝統、伝説、因習、そして文献などの研究を対象とし、それ以外を厳に禁止する」

→SLPは民族学的色合いが強い学会であることがうかがえる。

→なぜ民族的色合いが強い学会で、言語起源と普遍言語構築の研究を忌避したのか

 

・言語起源と普遍言語構築について

○言語起源

旧約聖書の創世記には、神が創造した物事についてアダムが名を付けると、それがそのままその事物の名前となっていく描写がある。

つまり、事物と言語には完全なる1対1関係があり、言葉は物事の本質全てを説明しうるものであった。しかしバベルの混乱を機にその言語は崩落した。

言語起源は、アダムの言葉が人類の原型言語そのものとして考えられ、言語の起源はこのアダムの言葉の探求を意味している。

そのため、アダムに言葉を与えたのは神であるから「言語神授説」とも呼ばれている。

○普遍言語

言語起源と同じような意味。バベルの崩壊以前では普遍的な言語が存在していたことから、アダムの言葉を探求すること=普遍言語の発見につながると考えていた。

※バベルの崩壊:バベルの塔が崩壊するまでは世界中の人間が皆同じ言語を持っていた(アダムの言葉、もしくは普遍言語)。しかしその塔が崩壊してからは、言語がバラバラになってしまった(英語とか日本語とかインド語とか)

 

 

・二つの説の変遷

13世紀になると普遍言語が優勢となる。

言語の完全性は、言葉と物事の一対一関係から、言葉と思考の一対一関係に注目することになる。

例:太陽は人間が作ったものではない(物事)

民主主義といった思想、理念は人間が考えたもの(思考)

つまり、より人間の理性に近づこうとしているということ。

 

具体的な研究では「結合法論」の中で、個別の思考要素を表す記号群を考え、それを組み合わせることで複合概念の表象を模索した「思考のアルファベット」を構築している。

 

こういった言葉と理性の探求は哲学的様相を呈し、「哲学的言語」として発展していく。

一方で、哲学的観点から言語を見る(つまり逆方向)ことで、言語のもつ文構造の共通点を人の思考構造の普遍性から記述しようとした「ポール・ロイヤル文法」なども現われている(人間の思考を分析し、その結果を文構造の解明につなげる)。

 

しかし、そういった哲学的思考は18世紀になると鳴りを潜める。

代わりに、フランス革命の共和主義思想の影響により、国際補助語としての『実用』をベースとした研究が盛んになる。

そして、研究の主体が研究者や哲学者から市民に移り変わっていく。

 

一方で言語起源説。

経験論を用いた研究が主流で、理性を前提としない感覚的なボトムアップ型言語起源説を主張(ボトムアップ:研究者の興味関心がトリガーとなって始めること。つまり、政府などの外部干渉を抜きにして研究を行うこと)。実用を強いられた普遍言語とは対照的。「理性によって言語が得られたのか、言語によって理性がもたらされたのか」というジレンマは、1772年に統合される。

 

しかし、自然主義的、実証主義的な比較言語学の台題により、言語起源説の高度で形而上学的な側面が疎んじられ、言語起源説は急速に衰退する。

 

 

 

両者の進歩を促したのは「自然主義」や「共和主義」といった『進歩的思想』であった。

 

 

・比較言語論は言語起源説にどのような影響を与えたのか

○祖語という概念

時間的にも地理的にも離れた言語と、現代の言語を結びつけた。

(インド・サンスクリットとヨーロッパ言語の類似性)

→断絶した過去を漠然として想定していた言語起源説に大きな衝撃を与えた。

とはいえ、全ての言語に類似性があるわけではなく、比較言語が扱う祖語の概念が、人類の原型言語と異なることははっきりと認識されている。

 

○言語勇気大切とダーウィン進化論との結びつき

子音推移に関する[Grimmの法則]など、言語の変化や消滅に関する法則の発見は、言語を自然の有機体と捉える「言語有機体説」という考えを生み出した。

(grimmの法則:印欧祖語とゲルマン祖語との関連性を証明。インド・ヨーロッパの祖語から、様々な言語が生み出された。つまり、今のヨーロッパの言語には祖先がいるということ。その祖先こそ、アダムの言語ではないか?)

しかし、言語学者はその法則自体の原理的な説明が出来なかった。

そこでダーウィン自然選択説で、有機体としての言語は常に淘汰圧が加わり適応的な規則のみが残るとされた(特に音韻)→要は使い勝手のいい言語・規則が生き残っただけということ。進化説と同じような意味合いをもつ。

 

ただし、言語の生物学的進は殆ど考慮されていなかった。

「言語は人間と野獣を隔てるルビコンである」(ミュラー:1861-340)

人と動物との間をまたいだ言語起源説は激しい批判にもさらされた。

 

 

○自然科学としての言語学

旧来の言語学は、古典文献の解釈、異本や原本祖形の解明と言ったことを研究対象としていた。

一方、比較言語学は言語を有機体と言う具象物とみなすことで、生物学や天文学などと同様に自然科学的手法が応用できるとした。

つまり、言語学は自然科学の一部であるということ。

 

 

進歩主義があたえた影響、ならびに社会的な背景

 

○SLPが生まれた時代背景

「人間の精神は神学的段階から、形而上学的段階を経て、最終的に実証主義段階へと至る(A.Comte)」(形而上:感覚的なもの、超自然的)

宗教や王政主義、そして伝統的な哲学といった保守的な思想は、人間の精神の発展に基づいて全体としての共和主義・実証主義思想へと移行する。

 

宗教界はこういった移行の段階に反発する(地動説とかそういう話?)。「誤謬表」ではその危機感を端的に表していて、自由思想や自然・実証主義、そして社会主義を真っ向から批判していた。保守的思想の先鋭。

宗教的解釈を元にした理論も19世紀では下火にはなるものの依然として影響力をもっていた。なぜなら、多くの宗教関係者が行政機関や学術機関に従事していて大きな影響力を有していたから。

 

SLPの前身はアメリカ・東洋民族誌学会。

アメリカ部会がメキシコ出兵に関わる所存により分裂し、不定期の会合としてできたのがSLP。経緯が経緯なので、SLPには保守派が多くいた。

SLPは保守的で民族的な思考をもつ研究者たちが大勢いた。

さらに、現在のフランス国民教育省の前進である公共教育省の大臣の存在が、SLPに政府からの意向が直接的に働きやすい特殊な事情を持っていた。

大臣は「フランス高等研究実習院」を設立。第四部門である歴史・文献科学部門の理想的な組織と見なしたのがSLPである。

 

 

○パリ人類学会(SAP)が与えた影響

「ブローカ野」の発見によって、脳計測を用いた人類研究を行い自然人類学という分野を確立したブローカによって設立されたのがSAPである。

SAPの前進(パリ民族学会)は共和主義的(進歩思考)な側面を持っていた。

しかし二月革命で機能不全に陥ってしまったトラウマから、必然的に政治(進歩思考まみれの)が絡んだトピックを避けるようになった。

そこに現われたのがブローカ(熱心な共和主義)。異種間交雑に関する研究を生物学会で発表しようとするが、生物の起源に関わるトピックであるため当学会から論文取り下げ処分を喰らう。

これを機にブローカはSAPを設立する。会員わずか19人で創立集会を行う。会員たちは警官から「少しでも政治・宗教に関わる不穏な発言があれば学会を不認可にする」という脅迫を受けてきたのである。

SAPは、人類学を「人種の科学」と呼んだ。

人種の優劣や言語の違いを脳計測で比較しようとした。

極めて物質主義的であり、実証主義であった。

言語有機体説を支持した無神論者、ダーウィンの進化論シンパなど、極めて進歩主義的な姿勢をもっていた。これは当時のフランスで随一である。

 

このSLPとSAPという相反する団体の敵対意識の根底には、科学的・政治的な信条の違いが如実に表されたものがあったと言える。

特にその対立が顕著なのが、1859年に同学会がまったく同じ日に創立集会を開いたという事実である。

 

民族性を明らかにしたいSLPにとって、言語の探求は避けて通れない。

民俗学・人類学にとって、言語研究は最も信頼のおける人種の境界画定手段であった、

 

○まとめ

起源にまつわる研究は言語問わずして、自然主義実証主義VS宗教的解釈を重んじた保守的の構造があった。

なので起源の研究は極めて繊細で、扱うのが非常に厄介だった。

そもそもとして言語学教育を発展させるという政治的要求に基づき生まれたSLPにとって、わざわざ面倒なトピックを扱う必要は無い。それよりも実用的な比較言語学を充実させることが第一だった。

 

だからSLPは、言語の起源説をトピックにすることを禁じたのである。喧々諤々となり荒れ模様が懸念されるである起源説を「トピックとして扱わない」という文言としたのも、そういう経緯があってのことだった。だから、決して起源説自体を否定するわけではなく、そういった荒れ要素は別のところでやれやってことだった。

 

 

○その後のSLP

フランス学術界が学士院ではなく教育機関を中心としたシステムに変わっていく中、SLPは当初の目的である言語学教育を柱とする構造を武器として、フランス学術界における地位を確固たるものとしていった。SLP出身者を次々と高等教育機関に送り続けていったのである。

しかし。結局ギリシャ研究会から比較言語学者が流入してきて、創立時のメンバーが次々と去っていった。さらに比較神話学者の離反や東邦研究者の追放などが相次ぎ、SLPは機能不全の瀬戸際に陥った。

仕方が無いのでSLPは、一般民衆の言語学への関心の高まりを理由として会則を改めた。

「本学会の目的は言語および史的言語の研究と定める。それ以外の研究は厳にこれを認めない」

晴れて起源説が受け入れられたのである。さらに当初の民族学的な方向を修正した。

真正の言語学会の誕生である。

 

 

○補記

「人々の間でやり取りされている真の言葉は、哲学的言語などという形而上の峻別された空間に霧のように現われた捉えどころのない概念とは全く異質のものである……われわれが本当に着目すべきことは、人間の原型言語などという、単なるあて推量に基づく研究で紙くずカゴをみたすことではない。ありふれた言語を一つ取り上げ、その歴史的変化を辿ることである」(Ellis :ミュラーの講義を徹底的に批判)

 言語の自律を仮想する言語有機体説を否定した。

 同説は「観察や経験が不可能である当に形而上的な概念」であったからである。

 この実証的な姿勢をもつ彼の言語起源論批判は、近代言語起源研究に下された真の鉄槌であった。