進化言語学の構築 第八章要約

言語の進化=生き方の進化という観点から

内田亮子

 

現存の言語が人間特有のものであるが、シンボル思考といった認知的機能の起源については議論の余地あり。

まずは、一体どこらへんで人間が言語を取得したのか、その時期について迫る。

 

直立二足歩行が初めて地球に現われてからいくつかの猿人やらなんやらが出てきた。

哺乳類の中で脳が拡大した系統に霊長類が含まれる。

脳が拡大したことで『社会的関係性』をもつことができた(つまりイエの文化ができた? むしろイエの集まりである集落の文化と言うべきか?)

脳がでかくなったので複雑なコミュニケーションが可能となった。

情報伝達能力や、騙し合いといったもののような。

※人が或る程度の社会関係を築ける集団規模はおおよそ150人(要検討)。

 

(自分の仮説)→それでは、脳がでかくなったから、言語を取得することができた……ということなのだろうか?

 

人類とその他大型類人との比較を行ってみる。

脳の容量変化

ホモサピエンス→赤ん坊の脳みそは成人すると三倍に拡大。摂取カロリーの20%を消費するくらいにでかくなるので効果的な食料獲得と準備が必要だった。さらに子育ても必要となり、それが『火』を産んだ一因になったのでは?(クッキング仮説)

それ以外→二倍程度の拡大。

 

歯の成長

ホモサピエンス→他猿人に比べ永久歯が生えるのが遅い。なぜなら親に依存しているから。

 

脳の成長の仕方

ホモ→生後一年間で頭頂葉と側等葉と小脳部位の拡張。より球体に近い。これらの部位は『感覚情報の結合や重要な認知機能』との関連性が『非常に大きい』。これは他の猿人とは一線を化す違いである。

 

 

音声コミュニケーションの違い

ホモ→喉頭は他猿人よりも低い。そのため食料を飲んだり食べたりしながら呼吸をすることが出来ない、という欠点を持った。代わりに、舌の可動域が広がり、声道の形が長くなり、フォルマントの変異性が拡大。その結果、他猿人にはない母音の数が増えた。

 

※声帯について

たとえば「あ い う え お」と声に出すとき、自然と舌が動いている。この舌の動かし方こそが、声道の変化である。先に言った「フォルマントの変異性」とはすなわち、このような自在な舌の動かし方を実現できたから、母音の音が増えたのである。

 

また、人間は『息を吸いながら言葉を発することができない』。息を吐きながらでしか言葉を発することが出来ないのだ(他霊長類では吸気により音声を出せる)。

ヒトは連続した音を連続かつ高速で生成することが出来る。それを実現できたのは、『呼吸のコントロール』に他ならない(胸部神経系の繊細なコントロール)。

この舌の変化やコントロールの技術を一体いつ身に付けたのか? これは未だに分かっていない。ただ、二足歩行になったあたりでそういうのが身に付いたんじゃないか説はそれなりにある。

 

 

○霊長類の社会性とコミュニケーション

旧世界猿一般は、音声によって血縁関係や種族、所属する集団、および個体の特定を関連付けることができていた。この関連付ける能力が、後の言語習得につながったのではないか。

 

 

声の大きさの違いによる役割の違い

大きな声、遠くまで聞こえる長距離→互いの距離調整として戦略的行為

→敵意とかそういうモノなのだろうか? 闘争目的?

小さくて内密な声→毛つぐろいの社会的機能

→愛情とかそういう感情? 穏和で集団メンバーを団結させる意図?

 

(自分の仮説)→脳は社会的要素をふんだんに詰め込んだものであったのではないか。

そして、その社会という集団を強固とするために、言語が生まれたのではないか?

 

「おしゃべり起源説」

近距離にいる個体間での社会情報交換手段を反映した、進んだ音声コミュニケーションを、言語の始まりであるとする説。

ヒトが進化するにつれて社会の関係性を持つようになり、それに派生する形で言語が生まれたのではないか。つまり、社会の構築こそが言語習得のカギとなった。ということ。

言語の特徴として、個体間の複雑な関係性や記憶を関連するというものがある(再帰性)。

 

 

社会的認知機能と共同育児説

低レベルのコミュニケーションなら猿人でもできるが、高レベルとなると人間が一枚上手。

このヒト固有の「社会的認知能力の理解」こそが、言語進化研究に欠かせないものである。

他者の模倣について。チンパンジーは上の立場の者の行動を真似したりする。ヒト、とくに赤ん坊では過度な模倣が顕著。

 

ヒト独特の脳の発達には、他から受ける食料分配における協力関係(つまり社会)を抜きにして得ることはできない。また、大きい社会であればあるほど、技術を伝承しやすい(間違った伝承を素早く修正することができるから)

 

 

まとめ

言語の起源はつまるところ、社会の創出ならびに成長によって生まれたものであると考えられる。だから、ヒトがどのようにして集団生活を送ってきたか、という歴史的研究・フィールド調査が非常に重要になるのである。言語だけやってもとてもではないが起源に辿りつけるものではない。

【映画感想 1】 ミスタールーキー  信頼こそが「全と個」を活かす

 

面白いと感じたところ、また製作者の狙いを気が付く分まで書きました。

 

ミスタールーキ

 

高倉健が出演するということで観ました、王道をいくベースボール洋画。

 

・ストーリー

1 メジャーで落ちぶれたスーパースター「ジャック」は、唯一契約が取れた「内山監督」率いる中日ドラゴンズへと移籍する。

2 鳴り物入りで入団してきたジャックに待ち受けていたのは、アメリカと全く異なる日本の文化やシキタリ。アメリカ式を貫こうとするジャックの自己中心的な行動に、チームメイトは不満をあらわにする。 

3 そんなジャックはある日、聡明な女性「ヒロ子」と出会う。ヒロ子は「日本流のやりかたを受け入れて」とジャックを説得するが、ジャックは素直に受け入れることができない。

4 最初こそ試合で活躍したジャックだったが、相手チームに対策をとられると成績はあっという間に悪化。負の連鎖に追い込まれ、ついに乱闘騒ぎを起こしてしまい謹慎処分に。

5 失意のジャックは、恋い慕う中になったヒロ子に自宅へと招待される。そこに待ち受けていたのは、ヒロ子の父である内山監督だった。内山監督は我がままを付き通すジャックを猛烈に批判するが、頑固者で人の話を聞きいれようともしない内山監督もまた、ジャックと同じように「受け入れることが出来ない」人間であることをヒロ子は叱責する。

6 そしてジャックは、中日に入団したきっかけは内山監督直々の推薦であったことを知る。ジャックの実力を心から信頼していた内山監督に、ジャックは失いかけていた自信を取り戻していく。

7 ジャックは内山監督を受け入れ、入団当初はさぼりがちだった日本流の激しい練習に必死に打ち込んでいく。その姿にチームメイトは感銘を受け、ジャックを受け入れていく。そして堅物だった内山監督もまた、ジャックの「楽しい野球を」という言葉を受け入れていった。

8 ジャックの成績も復活し、現役時代の内山監督が打ち立てた大記録にあと一歩と迫ったある日、メジャーからオファーが申し込まれる。ジャックは愛するヒロ子と共にアメリカに帰ろうとするが、ヒロ子はそれを受け入れることができない。

9 そして大記録がかかった大試合。ジャックに対する不当な判定やラフプレーに選手たちは猛然と抗議。なんとしてでもジャックに記録を更新させたいという思いでチームは一つになっていた。そして記録更新の最後のチャンス。ジャックは記録よりもチームの勝利を選んだ。歓喜の渦の中、内山監督はある決意をした。

10 ヒロ子の想いを受け入れた父、内山監督に背中を押されたヒロ子はジャックと共に海を渡ることを決意。ヒロ子もまた、ジャックの想いを受け入れたのだった。

 

 

この映画には頻繁に「accept(字幕では『受け入れる』)」という言葉が出てきます。

自分勝手で異文化を受け入れようとしないジャックは、ヒロ子の言葉や愛情を受け、少しずついろんなことを受け入れていきます。

 

この「受け入れる」という言葉は、場面場面でいたるところで登場していきました。キツイ練習を受け入れる。部屋で靴を脱ぐことを受け入れる。忠告を受け入れる……。典型的な自由なアメリカ人像を彷彿とさせるジャックはなかなか受け入れることができません。

見ている人は「一体どうやったらジャックはチームのシキタリを受け入れてくれるのだろうか」と興味を引かれます。よく「全と個」という言葉は学校や会社、部活やサークルでも頻繁に耳にします。チームの事も確かに大切だけど、自分勝手にやりたいという気持ちもある。社会に属している人間ならだれしもが思うことだと思います(日本はとりわけ「和を重んじる、全体を重んじる」という風潮が昔からありましたが、むしろ最近ではジャックの様な個人主義的な考えが多いのでしょうか?)

そのなかで、「どうしても受け入れることが出来ない、だけど目的のためには受け入れなければならない」というジレンマをどうやって解消することができるのか。これが一つのミステリーとなります。

そして映画が示したトリックは、内山監督からの「信頼」でした。

 チームの「全」を背負い選手たちをガツンと言わせる内山監督が、自分自身の「個」としてジャックを評価する。この『個の気持ち』が『信頼』という意味に繋がって行ったのだろうと思います。

 

 つまり、「個」を重んじる人には「個の思い」が一番効果的なのです。

 

 そしてジャックは内山監督を受け入れ、その「受け入れる」というキーワードがまるで連鎖するようにチームに浸透していきます。チームメイトから内山監督、そしてヒロ子へと。

この作品で気に入っていることは「全を押し付けることで個性が云々」みたいなことが無かったということですね。ジャックのガムクチャとかも日本人のチームメイトも受け入れてそれをとりいれ、さらにジャックのマッチの悪戯を逆にジャックやり返してしまうという始末。大事な試合の局面でアメリカ式の応援(キャップを裏返しにするやつ)を選手たちがとると、普段は猛烈に怒る内山監督も壁をポンと叩いてこれをスルー。ジャックの考えもまた、日本式のチームは受け入れていきます。

 

チームの中でお互いにお互いを受け入れていく。そんな理想的な関係を作り出すためには何が必要なのか。それをこの映画は示してくれました。ジャックのやり方を選手たちが受け入れてくれたのは、ジャックもまた選手たちを受け入れたから。このギブアンドテイクのような関係こそが、良好なチーム作り、ひいては学校や会社作りに繋がるのではないでしょうか。

 

 良い映画でした。

ワンパンマンのカタルシスについての個人的纏め

1巻

 

第一話:えらい崇高な思いで人間を滅ぼそうとしてきた怪物をワンパンで倒す

→笑えるくらいのあっけなさ

 

第二話:就活に失敗し死んだ目をしていた(まだ人間だったころの)主人公がヒーローに目覚め、怪物に襲われる少年を倒す。

→男ならだれしもが憧れるヒーローになれた、という快感

○子どもを助ける→外面

○憧れのヒーローになることを決心→内側

つまり、カタルシスを産むには主人公(ひいては読者)の外面と内面両方を満たさなければならない。

 

 

第四話:無敵だと思われていた主人公が苦戦する

「俺は負けない! 俺が地球を守る!」(血に塗れながら昂奮した面持ちで)

「(何だこの気持ちは……この胸の高鳴りは!)」

「(このピンチ この緊張感は! 久しく忘れていたこの戦いの高揚感は)」

夢でした

○夢落ちで笑いをとりつつ、主人公の無念さを表現する

 

 

第五、六話:真剣に戦っているところをコンビニ行ってくる感覚でやってきた主人公がやはりワンパンで倒す。また、死直前にまで追い込まれたジェノス(凄い強そうないヒーロー)を助け、尊敬される。

→仲間の窮地を助けるのをたった一話分で達成するのでストレスがない。

 

第七話

長々しく身の上話をするジェノスに「20行でまとめろ」と吠える

→圧倒的に強そうなヒーローを手懐けた(支配欲、とは少し違うかもしれないが似たようなイメージ?)

○強そうな仲間に慕われる理由がはっきりしている

 

第八話

怪獣に襲われても平然と構える。そしてやはりワンパンで倒す

→「(弱そうに見える主人公に向かって)立場を分からせてやる」からの瞬殺

 

 

第九話

圧倒的な知力で世界中に【貢献】←当然見返りが欲しいところ

しかし彼は世界に失望した

彼の思想である「人工的進化」に誰も強力しなかった←見返りがないのはかわいそうだけれども彼の思想は悪そのものである

幼少の頃から彼は人間の能力の低さに疑問を抱いていた←中二心を擽られる言葉

自分以外の人間が頭の悪い人間にしか思えなかった←なら悪の思想に染まるのも納得できる

○これを漫画で4Pに纏めるというテンポの速さとわかりやすさ

 

それを聞いて主人公はすぐにやっつけに行く。しかもその理由が特売日のため。

→割としょうもない理由でとんでもないことをやりにいくくという倒錯的な面白さ

 

 

第十話

例のちょう強い敵が主人公に【恐怖】し、「どうやってその力を手に入れたのか」と聞く

→ちょう強い敵が主人公(読者)に怯えるという快感

 

 

おまけ

はげ頭になるまえの話。トレーニングに勤しむ主人公が敵に襲われ、突然の不調により苦戦するが、わりと本当にしょうもない理由でその不調が癒えてワンパンで敵を倒す。

→苦戦しても虫歯がとれただけで倒せてしまったという快感と、磨き続けるという教訓を示す。

 

 

第16話

なんか凄そうな団体、権威がありそうな団体(ヒーロー協会)がくそまじめに話しているところを主人公はだらしない格好で聞く

→全校集会の校長の話なんて誰も聞きたくない、という発想により、『真面目にそして偉そうに講釈する輩を全力で馬鹿にしていく姿勢』が快感

 

なおかつ主人公の成績を不当に評価しようとする「新人潰し」をやはりワンパンで倒す

→クソみたいな人事をぶっ倒すという快感

→従来より「上司はクソ」みたいな風潮が世間一般にあるように思える。基本的に目上の人にはケンカを売って行く姿勢のほうがいいかもしれない。特に「自分の名誉のために不当な評価を下す」のような人間に。この「」の部分を如何に上手く敵キャラに染み込ませていくかというのが、悪役の設定方法の大きなヒントになる。

 

第十七話

ジェノスの全力の攻撃にあっさりと耐え、そしてジェノスをワンパンで倒す。が、ワンパンというのはただのチョップであり、さっさとうどんを食いに誘っている。

→圧倒的な強さを誇る主人公であれどむやみに人を傷つけるようなことはしない。そういう【強さゆえの余裕】の片鱗を見せている。

 

第二十話

ランクAのヒーローでも倒せない敵をワンパンで倒す

 

 

第二十七話

「勝てる勝てないじゃなくて ここで俺はお前に立ち向かわなくちゃならないんだ!」

→等身大なヒーローが立ち向かい、それを市民たちが涙を流しながら応援する

○そしてそのヒーローを主人公が颯爽と駆けつけ助け、やはりワンパンで敵を倒す。

 

第二十九話

皆から敵意を向けられる主人公に、一通の感謝の手紙を送る者がいた。それは先日助けたあの等身大のヒーローだった

→等身大のヒーローが主人公側につくことで、主人公と読者とのつながりが強くなった。

また、「彼にいいもずくを!」という粋な注文と、主人公が頼んだのはもずくという庶民さ(ワンパンで倒せるのに庶民的、というのが、粋なのだと思う)

第七巻のおまけ3

 

警察とヒーローの違いについて

警察「ヒーローはちやほやされてうぬぼれている」

警察「私たちだって命を掛けて人助けをしているのにこの差はなんだ」

ヒーロー協会が警察に刺客を送り、茶番劇を見せつけることで【ヒーロー協会>警察】を自演させようとする、がそれを主人公が阻止。

主人公「お願いされて動くものじゃない 警察もヒーローも」

→主人公が正論を言ってそしてやはり主人公が勝つ、しかも警察に恩を返す形で

○かつ丼の御礼、という【義理人情】が快感

 

 

第四十二話

派閥を作って主人公を妨害しようとするヒーローを倒す

→「派閥作り」は読者にとって毛嫌いするものである?

→学校とかの仲良しグループとかが凄い嫌い、みたいなイメージ。村上春樹の「沈黙」に出てくるクラスのリーダーを崇拝するクラスメートのような。

 

ジェノス「先生は誰とも組まない 誰とも対立していない ランキングなど見ていない」

→対立しようとするのは、自分は強いんだ、ということを相手に、世界に見せつけたいからという欲求、すなわち自己顕示欲によるもの。その【自己顕示力】が無い状態、無欲であることが主人公の魅力

○主人公には自己顕示力はいらない 

「だが不思議と強者を引き寄せる」

○自然と周りから集まってくる。しかも頼りがいのある強者が。それによって主人公の基盤は強固になる

「なぜなら強いから」

 

☆周りに媚びず、無欲である。そして、主人公の周りの人間関係は良好になっている。

その状態が一番ベスト。

皆だれしもがそうあってほしい。何をせずともありのままの自分でいることで人間関係がよくなってほしい(友達とか彼女とかが自然とよってくる)。

だけれども、そういう欲を主人公にもたせてはならない。主人公を魅力的に書いて、それでサブキャラが上手いことついて来てくれる。そういう環境づくりが必要。

「進化言語学の構築」  第三章の要約

パリ言語学会(SLP)が禁じた言語起源

山本肇

 

「本学会は言語起源および普遍言語構築に関するやり取りを一切認めない」

 

・禁止した理由

○蔓延する非科学的な言語起源研究に手を焼いたため

→実際は論文の提出を禁止にはしておらず、会合のトピックに上げることを禁止したものであり、10年後には当会則は放棄されている。

しかし、このような事実関係は一切忘れさわれ「言語を専門とする学会が言語起源に関する研究を公式に禁止した」というインパクトのある事実のみが切り取られてしまった。

 

・当学会の会則の第一項

「当学会は言語の研究および化学的な民族誌学的研究に寄与しうる伝統、伝説、因習、そして文献などの研究を対象とし、それ以外を厳に禁止する」

→SLPは民族学的色合いが強い学会であることがうかがえる。

→なぜ民族的色合いが強い学会で、言語起源と普遍言語構築の研究を忌避したのか

 

・言語起源と普遍言語構築について

○言語起源

旧約聖書の創世記には、神が創造した物事についてアダムが名を付けると、それがそのままその事物の名前となっていく描写がある。

つまり、事物と言語には完全なる1対1関係があり、言葉は物事の本質全てを説明しうるものであった。しかしバベルの混乱を機にその言語は崩落した。

言語起源は、アダムの言葉が人類の原型言語そのものとして考えられ、言語の起源はこのアダムの言葉の探求を意味している。

そのため、アダムに言葉を与えたのは神であるから「言語神授説」とも呼ばれている。

○普遍言語

言語起源と同じような意味。バベルの崩壊以前では普遍的な言語が存在していたことから、アダムの言葉を探求すること=普遍言語の発見につながると考えていた。

※バベルの崩壊:バベルの塔が崩壊するまでは世界中の人間が皆同じ言語を持っていた(アダムの言葉、もしくは普遍言語)。しかしその塔が崩壊してからは、言語がバラバラになってしまった(英語とか日本語とかインド語とか)

 

 

・二つの説の変遷

13世紀になると普遍言語が優勢となる。

言語の完全性は、言葉と物事の一対一関係から、言葉と思考の一対一関係に注目することになる。

例:太陽は人間が作ったものではない(物事)

民主主義といった思想、理念は人間が考えたもの(思考)

つまり、より人間の理性に近づこうとしているということ。

 

具体的な研究では「結合法論」の中で、個別の思考要素を表す記号群を考え、それを組み合わせることで複合概念の表象を模索した「思考のアルファベット」を構築している。

 

こういった言葉と理性の探求は哲学的様相を呈し、「哲学的言語」として発展していく。

一方で、哲学的観点から言語を見る(つまり逆方向)ことで、言語のもつ文構造の共通点を人の思考構造の普遍性から記述しようとした「ポール・ロイヤル文法」なども現われている(人間の思考を分析し、その結果を文構造の解明につなげる)。

 

しかし、そういった哲学的思考は18世紀になると鳴りを潜める。

代わりに、フランス革命の共和主義思想の影響により、国際補助語としての『実用』をベースとした研究が盛んになる。

そして、研究の主体が研究者や哲学者から市民に移り変わっていく。

 

一方で言語起源説。

経験論を用いた研究が主流で、理性を前提としない感覚的なボトムアップ型言語起源説を主張(ボトムアップ:研究者の興味関心がトリガーとなって始めること。つまり、政府などの外部干渉を抜きにして研究を行うこと)。実用を強いられた普遍言語とは対照的。「理性によって言語が得られたのか、言語によって理性がもたらされたのか」というジレンマは、1772年に統合される。

 

しかし、自然主義的、実証主義的な比較言語学の台題により、言語起源説の高度で形而上学的な側面が疎んじられ、言語起源説は急速に衰退する。

 

 

 

両者の進歩を促したのは「自然主義」や「共和主義」といった『進歩的思想』であった。

 

 

・比較言語論は言語起源説にどのような影響を与えたのか

○祖語という概念

時間的にも地理的にも離れた言語と、現代の言語を結びつけた。

(インド・サンスクリットとヨーロッパ言語の類似性)

→断絶した過去を漠然として想定していた言語起源説に大きな衝撃を与えた。

とはいえ、全ての言語に類似性があるわけではなく、比較言語が扱う祖語の概念が、人類の原型言語と異なることははっきりと認識されている。

 

○言語勇気大切とダーウィン進化論との結びつき

子音推移に関する[Grimmの法則]など、言語の変化や消滅に関する法則の発見は、言語を自然の有機体と捉える「言語有機体説」という考えを生み出した。

(grimmの法則:印欧祖語とゲルマン祖語との関連性を証明。インド・ヨーロッパの祖語から、様々な言語が生み出された。つまり、今のヨーロッパの言語には祖先がいるということ。その祖先こそ、アダムの言語ではないか?)

しかし、言語学者はその法則自体の原理的な説明が出来なかった。

そこでダーウィン自然選択説で、有機体としての言語は常に淘汰圧が加わり適応的な規則のみが残るとされた(特に音韻)→要は使い勝手のいい言語・規則が生き残っただけということ。進化説と同じような意味合いをもつ。

 

ただし、言語の生物学的進は殆ど考慮されていなかった。

「言語は人間と野獣を隔てるルビコンである」(ミュラー:1861-340)

人と動物との間をまたいだ言語起源説は激しい批判にもさらされた。

 

 

○自然科学としての言語学

旧来の言語学は、古典文献の解釈、異本や原本祖形の解明と言ったことを研究対象としていた。

一方、比較言語学は言語を有機体と言う具象物とみなすことで、生物学や天文学などと同様に自然科学的手法が応用できるとした。

つまり、言語学は自然科学の一部であるということ。

 

 

進歩主義があたえた影響、ならびに社会的な背景

 

○SLPが生まれた時代背景

「人間の精神は神学的段階から、形而上学的段階を経て、最終的に実証主義段階へと至る(A.Comte)」(形而上:感覚的なもの、超自然的)

宗教や王政主義、そして伝統的な哲学といった保守的な思想は、人間の精神の発展に基づいて全体としての共和主義・実証主義思想へと移行する。

 

宗教界はこういった移行の段階に反発する(地動説とかそういう話?)。「誤謬表」ではその危機感を端的に表していて、自由思想や自然・実証主義、そして社会主義を真っ向から批判していた。保守的思想の先鋭。

宗教的解釈を元にした理論も19世紀では下火にはなるものの依然として影響力をもっていた。なぜなら、多くの宗教関係者が行政機関や学術機関に従事していて大きな影響力を有していたから。

 

SLPの前身はアメリカ・東洋民族誌学会。

アメリカ部会がメキシコ出兵に関わる所存により分裂し、不定期の会合としてできたのがSLP。経緯が経緯なので、SLPには保守派が多くいた。

SLPは保守的で民族的な思考をもつ研究者たちが大勢いた。

さらに、現在のフランス国民教育省の前進である公共教育省の大臣の存在が、SLPに政府からの意向が直接的に働きやすい特殊な事情を持っていた。

大臣は「フランス高等研究実習院」を設立。第四部門である歴史・文献科学部門の理想的な組織と見なしたのがSLPである。

 

 

○パリ人類学会(SAP)が与えた影響

「ブローカ野」の発見によって、脳計測を用いた人類研究を行い自然人類学という分野を確立したブローカによって設立されたのがSAPである。

SAPの前進(パリ民族学会)は共和主義的(進歩思考)な側面を持っていた。

しかし二月革命で機能不全に陥ってしまったトラウマから、必然的に政治(進歩思考まみれの)が絡んだトピックを避けるようになった。

そこに現われたのがブローカ(熱心な共和主義)。異種間交雑に関する研究を生物学会で発表しようとするが、生物の起源に関わるトピックであるため当学会から論文取り下げ処分を喰らう。

これを機にブローカはSAPを設立する。会員わずか19人で創立集会を行う。会員たちは警官から「少しでも政治・宗教に関わる不穏な発言があれば学会を不認可にする」という脅迫を受けてきたのである。

SAPは、人類学を「人種の科学」と呼んだ。

人種の優劣や言語の違いを脳計測で比較しようとした。

極めて物質主義的であり、実証主義であった。

言語有機体説を支持した無神論者、ダーウィンの進化論シンパなど、極めて進歩主義的な姿勢をもっていた。これは当時のフランスで随一である。

 

このSLPとSAPという相反する団体の敵対意識の根底には、科学的・政治的な信条の違いが如実に表されたものがあったと言える。

特にその対立が顕著なのが、1859年に同学会がまったく同じ日に創立集会を開いたという事実である。

 

民族性を明らかにしたいSLPにとって、言語の探求は避けて通れない。

民俗学・人類学にとって、言語研究は最も信頼のおける人種の境界画定手段であった、

 

○まとめ

起源にまつわる研究は言語問わずして、自然主義実証主義VS宗教的解釈を重んじた保守的の構造があった。

なので起源の研究は極めて繊細で、扱うのが非常に厄介だった。

そもそもとして言語学教育を発展させるという政治的要求に基づき生まれたSLPにとって、わざわざ面倒なトピックを扱う必要は無い。それよりも実用的な比較言語学を充実させることが第一だった。

 

だからSLPは、言語の起源説をトピックにすることを禁じたのである。喧々諤々となり荒れ模様が懸念されるである起源説を「トピックとして扱わない」という文言としたのも、そういう経緯があってのことだった。だから、決して起源説自体を否定するわけではなく、そういった荒れ要素は別のところでやれやってことだった。

 

 

○その後のSLP

フランス学術界が学士院ではなく教育機関を中心としたシステムに変わっていく中、SLPは当初の目的である言語学教育を柱とする構造を武器として、フランス学術界における地位を確固たるものとしていった。SLP出身者を次々と高等教育機関に送り続けていったのである。

しかし。結局ギリシャ研究会から比較言語学者が流入してきて、創立時のメンバーが次々と去っていった。さらに比較神話学者の離反や東邦研究者の追放などが相次ぎ、SLPは機能不全の瀬戸際に陥った。

仕方が無いのでSLPは、一般民衆の言語学への関心の高まりを理由として会則を改めた。

「本学会の目的は言語および史的言語の研究と定める。それ以外の研究は厳にこれを認めない」

晴れて起源説が受け入れられたのである。さらに当初の民族学的な方向を修正した。

真正の言語学会の誕生である。

 

 

○補記

「人々の間でやり取りされている真の言葉は、哲学的言語などという形而上の峻別された空間に霧のように現われた捉えどころのない概念とは全く異質のものである……われわれが本当に着目すべきことは、人間の原型言語などという、単なるあて推量に基づく研究で紙くずカゴをみたすことではない。ありふれた言語を一つ取り上げ、その歴史的変化を辿ることである」(Ellis :ミュラーの講義を徹底的に批判)

 言語の自律を仮想する言語有機体説を否定した。

 同説は「観察や経験が不可能である当に形而上的な概念」であったからである。

 この実証的な姿勢をもつ彼の言語起源論批判は、近代言語起源研究に下された真の鉄槌であった。